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6月4日 ネット選挙

パーマリンク 2013/06/06 10:08:14 著者: y-ishida2 メール

話とか言葉について考察してみる。
政治家という職業は話すことを武器とする。
だからスピーチは自分なりに意識してきた。話は言葉で成り立つ。書き言葉、書物を読むこと、文章を書くことも言葉の意味を考えさせるが、われわれは言葉の前に考えがある、まず何を考え、何を思い、何を伝えようという内発性があって、次に言葉と表現の技術の問題になる。私はスピーチをする時、自分自身に、これから私の伝えたいことはこのことである、このことについてわかって欲しいというその1点を明確に脳裏に描いて、それがあふれ出るようなイメージで人前に立つことにしている。その1点は絶対に自分の言葉で、強い音声のストレスを伴わなければ人に伝わらないと思ってきた。そのことこそがスピーチの生命であり、政治家の武器であると考えてきた。
最近大学の関係者と親交が深まり、いわゆる学術的な世界に縁が広がった。この世界は書物からの引用を多用し、資料がやたら多く、IT技術を駆使する。今までの政治世界では、例えば、街頭演説であったり、大衆に向かってのアジ演説などは、資料を読んだり、パワーポイントを使うことなど考えもしなかった。だから、多少のためらいを覚えながら、ここのところ言語表現に関する異質世界に踏み込もうとしている。
この新たな挑戦のため、今日パソコン教室を経営する友人を訪ねた。パソコンを使っての講演の仕方を学習し終って、間もなく始まる参議院選挙、「ネット選挙」の話題になった。日進月歩進化し続けるネット社会のことはどう考えたらいいのか正直私はまだわからない。パソコン教室でメシ食っている友人ですら「これがいいか悪いかは別として」という前置きでものを言う。要は、ネット社会は大きな光の反面、影、落とし穴が明らかにある。引き続き、今夏の参議院選挙を取り仕切る選挙関係者も入れて更に議論を深めた。自民党は電通や博報堂という大手の広告会社に委託し、徹底的にネット選挙対策を研究しているそうだ。私はその情報を聞いて、自民党というのは相変わらず金の力で物事を考える組織だと思わずにはいられなかった。ウェブ社会とは、組織を使わず、金をかけず、名もなき大衆が世の中を動かす、一人一人すべて平等の人権を有するという民主主義のツールとなりうるから肯定されるのであって、これがまた従来のような金と権力の側に有利に働くならば、何も時代を切り開く文明たりえなのではないか。更に、ネガティブキャンペーンやヘイトメールの弊害のほうが大きいのではないか。また、政治家のツイッターやFBの文章は、政策を書いてもほとんど読まれない、今日は何を食べた、何処へ行った、面白かった、楽しかったとだけつぶやいていれば、選挙の投票に繋がるらしい。これからの世の中について行くにはよほどの覚悟がいる。   

5月30日 エベレスト登頂

パーマリンク 2013/05/31 13:53:59 著者: y-ishida2 メール

冒険家三浦雄一郎さんが80歳の御年で地球最高峰エベレスト登頂に成功したニゥースは日本中に明るい希望を与えた。高齢者の世界記録で、日本人として誇りに思う。人間というものの可能性を語って歴史となる。彼は、実に用意周到準備を重ね、緻密な計画を踏み、強い意志と強靭な肉体を持ったワクワクするようなロマンテックな冒険家だ。
一方、ここで私は千日回峰の大阿闍梨、酒井雄哉さんのことを思い出した。私の衆議院選挙の必勝と国政の安寧を祈願すると言って、さる方に酒井雄哉さんがご住職を務める比叡山飯屋谷の長寿院へ連れて行ってもらったことがある。千日回峰とは比叡山を1000日回峰し、国家の平安を祈る宗教行為だ。途中で断念した時自殺する短剣を持するという。3年間は1日30キロを6時間で巡回を100日。次の2年間は200日。ここで、断食・断水・断眠・断臥を9日間行い、生身の不動明王阿闍梨となる。更に6年目は一日60キロを100日、最後の7年目は1日80キロで1000日に達し終るという、すさまじいものだ。即、修行が済んだという報告を京都御所に下足参内。国家の平安を祈願する。科学世界では絶対死ぬが、人間という生命体の持つ摩訶不思議な精神世界だ。私はこの酒井大阿闍梨に必勝の護摩を焚いていただいて後、お話を承った。大正15年のお生まれで、歴史上初めて二度目の千日回峰をやられたのは60歳であったという事も知った。
70戦目に負けたあの不出世の名横綱双葉山は、歴史に「我いまだ木鶏たり得ず」という名台詞を残しているが、本当に強い人は表面強そうに見えない。自然体で力みがない。ごく平凡な老人に見えるのが双葉山の言うところの「木鶏」なのだろう。私のお会いした酒井大阿闍梨もそんな人だった。日本史の中から静かに日本人の生き方を説かれ、砂地に水が浸み込む如くゆっくりと国家や平和の意味を話され、鮮明な印象を受けた。
三浦雄一郎さんが無事帰国し、テレビで話を聞いた。彼も木鶏の如く、ぎらついた虚勢は少しも見えず燻銀のような魅力を感じた。
ただし、私としては三浦さんの口から、エベレストの山頂で世界平和を祈ったとか、東北大震災の早期回復を願ったとか言って欲しかった。日本人の山登りは古来「開山」と言い山岳信仰であり宗教の対象でもある。ところが、欧米人の山登りは征服であり自然への挑戦だ。
登山とはテーマは違うが、私は、日光東照宮を始めてみた時、あの建物に、日本人の宗教観を見た。あの建築は仏教思想の権化であり、そこに徳川時代の平和へのメッセージを痛いほど感じ、圧倒された。三浦さんは構築物で比較すると、科学の粋を集め世界最先端、人気絶頂の東京スカイツリーだ。

5月29日 アベノミクス

パーマリンク 2013/05/30 21:26:48 著者: y-ishida2 メール

株価が乱高下し世間を騒がせている。円安効果で、輸出を中心とする大企業が軒並み収益を上げている。が、逆に輸入品は値上げを強いられている
「アベノミクス」の光と影が連日マスコミを賑わし、何か日本中が景気上昇による高揚感を期待しつつある。「アベノミクス」とはリフレ、即ち意識的なインフレ誘導、バブルを作ることであるとは大方のエコノミストの解説するところだ。景気が良くなることに水を差すつもりはないし、自民党政権にケチをつけることもないが、私もこの年になると経験からくる読みというものが働く。表面よりも目に見えない地下のありように関心が行く。安倍さんの話には「一番・最大限・最先端・革新的・競争力・勝ち抜く製造業・潜在力の高い成長分野」等々ギラギラの言葉が並ぶ。少々古い四字熟語を使うと「弱肉強食」の世界だ。
今の日本は成長から成熟にはいり、山登りでいうと登頂を終えて下山の時期だと考えてきた私にはどうも腑に落ちない時代感覚だ。一体安倍内閣は日本をどこに連れて行こうとしているのだろうか。「アベノミクス」の矢は完全に後に向かって放たれるような気にすらなる。
1970年代、いわゆる日本経済の絶頂期に成功し、バブル崩壊とともに資産を失くした人達の経験談を読んだ。夢よもう一度とは思わないというのが彼らの感想だった。
芥川龍之介の「杜子春」を思い出した。杜子春は二度仙人の力により洛陽一の大金持ちになるが、豪遊散財、無一文となる。三度目は仙人の言葉を遮り大金持ちになる空しさを悟り、一農夫として慎ましいが幸せな人生を送る。芥川の洞察と文学の力は私に珠玉のような上質の価値観をもたらす。
私が衆議院議員であった民主党政権でも、某大臣は会合の冒頭先ず、今日の円相場はいくらですから始まった。会議の議論も勉強会も、経済問題、景気の動向に関するテーマが多くを占めた。とにかく景気だ。景気が良くならなきゃ何言っても駄目だ。そんな価値観が当時も国会を覆っていた。何のための経済成長かという議論が置き去りになっていた。が、今はもっと酷い。完全に本末転倒だ。経済成長したらそれをどう分配するかの議論が忘れられている。「弱肉強食」から「弱者救済」にシフトするのが政治ではないのか。
私は経済というのは成長と競争も大切だが、それと同じくらい分配の議論をしなければ、何度も言うように本末転倒であり、どんなに景気が上昇しても無意味だと思う。この先何だかどんでん返しがあるような不安な気持ちを抱くのは私一人であろうか。

5月25日 犬山城

パーマリンク 2013/05/26 10:05:14 著者: y-ishida2 メール

城下町を再生するため犬山市長の時立ち上げた「まちづくり会社」の総会で犬山城の歴史を学ぶ機会があった。講演者は「財団法人犬山城白帝文庫」館長の松田之利さん。
犬山城下町と犬山祭と犬山城の三位一体は卓越した文化遺産であり、オンリーワンの空間だと思っている。それぞれがお互いに支え合い共鳴し合っているのだが、やはり何と言っても城の存在が精神的支柱になっている。
学者である松田さんの話は史実と文献に基づく説得力のある話だった。
一方この町に生まれ、この町に育ち、市長を仕事としてきた私には文献とは次元を異にする視座がある。信仰心にも似た思いがある。
日本の城は天守閣が中心であり、「天守」は「天主」とも書いたように文字通り天体の中心を意味した。日本の城は北天に輝く北斗七星を背後に、南方に町を広げるコスモロジー(宇宙観)で作られている。だから天主は統治の中心である以上に宗教的求心力を持つのだ。丁度ヨーロッパの町が教会を中心に形成されるように日本の城下町は天主が町づくりの精神性を発揮する。犬山の場合はその天主の下に氏神たる針綱神社があり、これが犬山祭の祭神となっている。だからこの三者は不離一体のものであり犬山のアイデンティティーを形成している。
それは、氏神との邂逅の場たる祭に懸ける住民の思いに現れる。400年近く営々として受け継いできた祭という無形の習俗はこの町に生きる者の心身に染みついている。われわれ犬山城下町の町衆は一年を祭中心の暦で生活する。
私は、この城下町を100年先200年先にも持続できる町にするには今何をしなければならないかを考えている。特に21世紀に入って加速してきたグローバルエコノミーと少子高齢化の歴史の大波に対し、どう向き合っていったらいいのか、今打つべき一手は何かを模索している。
歴史に学ぶことだ。今日のようにこの町に関する歴史を知り、未来を考えることだ。

5月24日 トポスとパトリ

パーマリンク 2013/05/25 14:10:34 著者: y-ishida2 メール

トポスというのはギリシャ語で場所という意味であり、パトリは祖国とか故郷という意味である。祖国とか故郷への思いや愛は必ずその感情を形成する場所がある。われわれの精神は生活する場所から決定的に影響を受ける。私のパトリは生まれ育った山川草木とそこに住む人々がトポスだ。木曽川の四季折々の水音や風のそよぎや犬山祭の笛の音や町中の雑踏や隣近所の人たちの何気ない会話が故郷への愛となり祖国というものへの無意識の誇りになっている。
私は、人に語るほどの読者家ではないが、小説を読むことは好きだ。
司馬遼太郎に夢中になり、彼の著作は寝食を忘れて読んだ。「翔ぶが如く」の読後は薩摩まで出かけ、西郷の生まれた土地に立つことで明治国家の高揚感に自らを同調させたし、「坂の上の雲」の読後は竜馬とともに歴史の回転を潜り抜けた。司馬の小説には日本の山川草木と風や匂いが感じられた。祖国と故郷の肌に触れる思いだった。司馬の文体にも魅せられた。心身に心地よいというか、日本語と漢字の持つ力にいつも嬉々とした。
また、私は村上春樹の小説にも寝食を忘れて嵌まり込む。最近話題の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」を読んだ。物語の展開の面白さに引き込まれ、一気に読み終えた直後、暫く人生と世間が仮想現実のような錯覚に囚われた。村上春樹の面白さは、人生を掘っていく、地中深くに入り込んでしまう感覚だ。読書中の思考がまるで異次元の世界に誘われる。リスト作曲のピアノ音楽が聞こえてくる。
司馬遼太郎と村上春樹を比較し、トポスとパトリという事を考えた。
戦争の体験者でもある、司馬の世界には実に明確なトポスとパトリがある。一方戦後生まれの村上春樹にはトポスとパトリが掴めない。勿論村上春樹作品にも、戦前の日本についての言及はある。が、彼のスタンスは世界から日本を見ている。
かって、川端康成がノーベル文学賞を受賞し、三島由紀夫が候補に挙がった頃は日本の伝統的な美意識こそ世界に認められる基準かと思ったが、村上春樹がノーベル賞候補と聞くと世界が日本を見る目も違ってきたのかと思う。私は村上春樹の文体にも強く見せられるし、実に平明でかつ深い日本語で書かれているのだが、何か違う。日本の故郷や祖国の匂いを感じない。この感覚は私だけの感覚なのだろうか。
実は今、国内外で始まりかけた新しい時代の模索は、司馬の世界で行くのか、村上の世界で行くのかの分水嶺のような気がする。われわれの故郷や祖国はいったいどこにあるのか。一体どこに立ったらいいのか。
私と言ったら体勢は村上ワールドに軸足を移しつつも、初夏の薫風が運んでくる司馬ワールドの太鼓の音が気になって仕方がない

5月16日 愛国心

パーマリンク 2013/05/17 09:58:24 著者: y-ishida2 メール

喉元過ぎれば熱さ忘れるーいろはかるただ。あの大東亜戦争の過ちと教訓も70年近くたつと日本人はそろそろ忘れかけたという事か。
「維新の会」橋下大阪市長が慰安婦のことを認めるような発言し、石原慎太郎衆議院議員もその意見をフォロー、内外のマスコミの話題をさらった。発言の本質は戦前の日本の体質をどう考えるかという事である。
 少し前になるが、鳩山由紀夫さんが中国を訪問「尖閣諸島は日中の係争地だ」という発言に対し、小野寺防衛大臣が「鳩山さんは国賊だ」と言った。
安倍内閣はアベノミクスやTPPという経済では新自由主義に前のめりする反面、実は歴史を逆戻しするような動きも顕著だ。憲法問題に絡めて、自衛隊を軍隊にするという考えや、教育観も道徳を強制しようとするなど明らかに戦前に戻したがっている。私は、防衛大臣の使った「国賊」という言葉に象徴的な流れを感じ、大きな驚きと不安を禁じ得ない。
多少過去の人物になるかもしれないが、戦前戦後にかけて大きな影響力を持った社会学者清水幾太郎著の「愛国心」を今一度読んでみた。清水はトルストイの言葉を引きながら、愛国心は戦争につながると警鐘を鳴らす。愛国心は呪詛(まじない)であるともいう。愛国心は無頼漢の最後の避難所であるともいう。暴力団、博徒、反社会的集団は愛国心の看板を掲げる。そして戦前は「国賊」とか「非国民」という魔女狩りによって自分たちの同胞をも偏見と恐怖と暴力によって傷つけていった。要するに、愛国心という言葉は、民主主義の人権思想である平等や他民族への寛容さと共生しないと危険だ。私には戦前のわが国と今の北朝鮮が多少ダブってしょうがないのだが・・・・
先般中国で、日本の企業を襲い、車を破壊した中国人は「愛国」を叫んでいた。日本人にとって最高の愛国者は靖国神社に祀られた兵士たちであろう。しかし彼らは、中国や朝鮮で戦闘し殺戮したことも歴史の事実だ。みんなそれぞれの国では愛国者なのだ。愛国心という言葉は呪詛なのだ。簡単に使ってはならない言葉なのだ。だから私は、小野寺防衛大臣が鳩山さんのことを「国賊」といったことを簡単に見過ごす事は出来ない。戦前の日本と一緒ではないか。
この67年間、敗戦の教訓を生かし、世界の国々と協調し、民主主義を学ぶための日本人の努力はなんであったのか。
喉元過ぎれば熱さ忘れる。

5月12日 歌謡ショー

パーマリンク 2013/05/15 15:40:17 著者: y-ishida2 メール

私の友人に飛騨市の市会議員野村勝憲さんがいる。彼の父親は古川町時代の町長であったが、長く名古屋の広告業界で働き、今故郷に帰り市会議員だ。強い郷土愛を持ちつつ大都会の多様な文化性も兼ね備えた才能がある。その野村さんが応援する、向林利明という飛騨市生まれの歌手の新曲発表ディナーショーに招待してくれた。
大工の棟梁からプロ歌手になり、私の好きだった歌手竜鉄也に師事したというベタベタの土着型演歌歌手だ。野村さんが、東京の作詞家やプロダクションと結びつけ今日の新曲発表に至ったのだ。
飛騨一円の名士、ファンが会場に満ち、黄色ではなかったが声援が飛び、おひねりや花束や祝儀袋や握手で盛り上がった。歌も飛騨の匠や飛騨牛やお越し太鼓や男の生き方や人情や飛騨と故郷と演歌世界で満載だった。私の観察では、参加者の平均年齢は60歳以上ではなかろうか。しかし、抑制の効いた活力と喜びと興奮が会場を支配した。私は、隣席の作詞家先生達に「最近の若い人の歌はとんとわからないですナ」と投げかけてみた。「あれは雑音です」という答えが返ってきた。昔、古賀政男が「歌というのは、歌詞が姉で、曲が妹だ!」と言っていたのを思い出した。言葉の力が大切だということだと思う。向林利明の歌には飛騨の土地を表現する言葉に思い入れがあり、いい歌手だと感じた。
今日のディナーショーを私の職業用語で表現するならば「地域主権」のモデルであった。故郷と人生、美しい日本の言葉と旋律の世界。飛騨の文化を通してみる、日本の風土があった。
歌という、市民が楽しく参加できる手法を使ってこれだけのまちづくりをした野村さんの手腕に敬服だ。

5月3日 憲法記念日

パーマリンク 2013/05/06 09:32:52 著者: y-ishida2 メール

ゴールデンウィークというと何だか日本全体が休日を楽しみ、遊ぶ週間というような雰囲気だが、国民の祭日にはそれぞれの意味があり、今一度その意味を確認する必要がある。
その一番が、今日の「憲法記念日」だ。私は、民主党を代表して青年会議所主催の憲法を考える集会に出席したくらいだから、憲法には関心が深く、「憲法記念日」には特別の感慨を抱く。
憲法は、ある面では、今の日本と日本人の自画像だと思う。憲法を読んでみる、あるいはその成立過程をもう一度思い起こしてみると日本史のおさらいになるし、世界の中で現在のわれわれの置かれている状況もわかる。憲法は実に面白い物語であるし、様々な考えを喚起してくれる生涯学習の教科書でもある。
毎年、「憲法記念日」前後は憲法論がかまびすしい。護憲論・改憲論それぞれが意見を主張し合う。今年は、自民党安倍政権の誕生によって、更には今夏の参議院選挙を控えて、ことさら激しさを増したように思える。
現在のわれわれの自画像である日本国憲法は、第二次世界大戦に敗戦し、GHQによる占領下に作られたものであることは歴史の事実だ。一応国会の議決はへたというものの、占領下、主権を失っていた時のものであり、原案はアメリカ政府から指示されたものである。日本国民の意思ではないから、この際本来の独立国に立ち返って、自主憲法を制定すべきだという意見には一応筋がある。かといって、今自民党を中心に高まっている改憲論に耳をそばだてると、どうしても戦争のできる普通の国にしたいと聞こえる。その点が憲法論議で最も重要である。世界中で一国くらい、国家の意思によって戦争をしないと憲法でうたう国があってもいい。いかなる戦争にも加担しないという生き方は、国際社会の外交上問題があるという意見があるが、かたくなに、頑固一徹理想主義を唱え続けることこそ価値があると私は思う。
人類の歴史に燦然と輝く理想を矜持する日本国憲法第9条を守りきるなら、私は真剣に憲法改憲論議に加わろう。ただし、現在のように96条の変更手続きから入るような正統性を欠いた憲法論議はまるで話にならない。

4月28日 主権回復の日

パーマリンク 2013/04/29 14:12:52 著者: y-ishida2 メール

政府は昭和27年4月28日をもって、国家の主権を回復したと言っているが、私は沖縄の主張が正しいと思う。沖縄を日本の領土だと思うなら、今日は決して主権回復の記念日ではない。
この日、「戦争と一人の女」という映画を撮った井上淳一監督が名古屋へ来た。井上さんは犬山の出身であり、滝高校卒業というから応援する気になった。原作は坂口安吾の「白痴」いわゆる戦後混乱期のデカダンス。戦争とエロティシズムというか、戦争という殺戮行為で精神が破壊された男女の物語。落ちるところまで落ちた人間の生き方を描き、強烈な反戦のメッセージと受け取った。井上監督曰く、坂口安吾のテーマなんかを扱うのは30年ぶりぐらいではないかと。成程そんなものかと今更ながら、時代の価値観の変遷を思った。私も、井上監督も戦後生まれだが、この映画が出てきた今の時代背景に何かを予感する。
キャスティングもいい。プロデゥースの元文科省官僚寺脇研さんと、抜群の演技派俳優坂口安吾役を演ずる長瀬正敏さんにも会って、懇談した。最後の死ぬ場面を撮るために4日間絶食し7キロやせたという壮絶なエピソードに役者魂を知った。この映画を見た人の感想を聞きたいものだ。
この日もう一か所のイベントも面白く過ごした。岐阜県七宗町の集会に招かれて「山村の自然と共生するくにづくり・まちおこし」と題して講演。七宗は人口4〇〇〇少々の町で隣の美濃加茂市に合併の希望を伝えたものの財政事情の悪さから拒否されたと聞いている。合併しないほうがいい、貧しくとも、経済力だけが幸せの指標ではない、山村の自然に抱かれた共同体の生活に幸福を求めたほうがいいという立場からの持論、「今こそローカリズム(ふるさと主義)」を話した。講演後、主催者の皆さんとまちの食堂のような店で懇親会に加わった。酒が入り大いに盛り上がった。話題は、自然と共に暮らす生活やオラが町の自慢話で、聞いていて心底面白く楽しかった。人口など少なくても住民の絆さえあれば町は十分生きてゆく。逆に、政府や行政の援助にすがるのは後進性だ。この七宗にこそ日常的な自治の実践である民主主義の原点、タウンシップがあった。

4月25日 学力テスト

パーマリンク 2013/04/29 14:04:55 著者: y-ishida2 メール

文科省による、小学6年生・中学3年生を対象とする「全国統一学力テスト」が行われた。
私が犬山市長の時始まった制度で、私の決断で、全国の公立学校中犬山市だけこのテストを実施しなくて話題を呼んだ。民主党政権で全員調査から抽出調査になったものの、自民党になり又戻って、今年全員の調査となった。
まず言いたいことは、このテストは法律でもなんでもなくて、文科省の行政調査に過ぎない。地方分権の時代、自治体の自主判断でどうにでもなる。学力テストといえば、他にも学習指導要領の進捗調査やら何やらかにやら実は子ども達はテスト漬けだ。犬山の場合は、少人数授業を中心とした内発的な諸々の教育改革を重ねてきたので、これ以上テストすることなど不必要と考えただけのことである。
そもそもこのテスト発想は、学力観としてのいわゆる「ゆとり教育」の揺れ戻しから、またぞろ復活した「詰め込教育」(極端かもしれないが体育教科における「体罰教育」)とワンセットになっている。学力調査を競争による統制の手段として使おうという考え方、能率・効率を追求する昔ながらの学力観、相対的比較の価値観である。他と比較することは教育上大問題である。比較の行きつく先は、際限のない不平不満だ。教育の本質は、比較ではなく、ナンバーワンよりオンリーワン、絶対価値でなければいけない。
だから、私はこの全国統一学力テストは無意味と考える。
このテストは毎年何度やってもその調査の結果、教育政策に何が反映されたというのか、どう授業改善に生かされたのか聞いたことがない。中央官僚の紙と鉛筆、今は、コンピューターというのか、机上の仕事、調査と分析だけの典型である。

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